昭和48年10月17日 夜の御理解
色々な稽古と名の付くものの事の、名人とか達人言われる人達に聞くと、もう此処までの所まで、極められたんだから、大したもんですなと言う風に、皆んなが申しますと、もう必ず達人とか、名人と言われる程しの人。いいえもう御道は限りがありませんと。もう稽古はもう限りはないと言う風に、必ずまたそれが実感でしょうしそう言いますね。あのそれが言えれる間は、口がどんなに例えば大きな事を言うて居っても、それは慢心じゃない。心にそれがある時には、それが感じ無くなった時が慢心だ。
今日はあのそんな事を、休んでおる時に頂いたんですけれどもね。皆んな段々信心をさせてもらって、私が何時も言う、ちった慢心の出るくらいなおかげを頂けと、ね。本当にこんなおかげを頂いてと言う事がです。やっぱり自分の信心に、是だけのおかげを受けられる様になったと言う事を、やっぱり話さなければ居られん、またはあのう言わなきゃ居られないと言う様な物がある。それを聞きようでは、あっちは慢心しとると、こら、人間が聞いた場合に、そう感じますですね。
けれども神様の目からご覧になる時には、その言うておるその人がです。もう信心には、例えば、稽古事には切が無い限りがない。まぁだまぁだ何処迄極めて行けれるか解らん。また、極めて行かなければならんと言う姿勢を、心に持って居るとするなら、それはもう慢心じゃないと。それは神様のご覧になった所。だからまぁ、問題は人間が見ても、矢張り謙虚ね。口だけでは謙虚に、いいえ私共はと、こう言いながら、心には自分より上の者はないと、こう思うとるなら、それはすでに慢心である。ね。
けれども本当にあの、慢心が出る程しのおかげを、先ずは頂く。そして神様のお働きちゃ、もう一分一厘間違い無いね。こう云うおかげを頂いてと、その、言えれる様な時には、本当にそうですなと、皆んなが聞いてくれる人もありゃ、聞き様ではあの人がちっとばっかり、出来たからちった慢心が出たと、ね。自慢し御座ると言う風に聞こえる訳。こら人間が聞いた所。
けどもまぁそう云う人間が聞いて、慢心と思うくらいなおかげを、先ずは頂きたい。問題はそれが心の中にね、今さっき申します、もう信心ばかりは限りがない。その限りない道を、独居の最近の、二三日前の御理解で言うとです。もう生神を目指すのですから、限りがない。ね。本当にどれだけ精進しても、どれだけ修行しても、是で良いと言う事は無いと、精進の心を怠らないものが、心にあるならば、それは神様からご覧になる。所謂慢心が大怪我の元になると言った様な事にはならない。
けどもまぁ、段々おかげを頂いて、ほんなら人間が見ても、なら謙虚だ、神様の目からご覧になっても、矢張りそう言う風に感じて頂ける様な、生き方にならせて貰う事は、こりゃー私共の、理想とする所ですけれどもね。けれども本当にもう、例えば今日一日の事を言うても、本当に神様の働きの間違いない事。こんなおかげ頂いて、あんなおかげ頂いてと、例えば、言える様なおかげを、やっぱ頂きたいですね。
だからそれが場合によるとです。ま反感でも持った人が聞きよると、もうあの人は何時も自慢話ばかりしてからと言う事になるんです。けれどもあの神様からご覧になった時には、それは決して自慢でもなからなければ、慢心でもない。私は今日その事を分からせて貰って、はぁこら、まちっと言葉ででも、大きい事を言うても良いなと言う様な感じがしましたですね。
どうぞ。